まぶたの痙攣が
右目の下の方の瞼がたびたび痙攣してしんどいです。
調べると寝不足やらストレスやらいろいろと原因があるようだけども
そんなん取り除けないっすよ。寝不足はないと思うんだよなーってくらいには寝てるんですよ。
ストレス・・・まぁすごいストレスですので、この数ヶ月は。
それのせいかなー。
まぁしかしストレスの原因なんて簡単に取り除けないですわね。
明日億万長者になったら、解放されると思いますけど。
っつーかしかし、困る。痙攣。
痙攣起きた時に「こうすればその場はおさまる」みたいなのがないんですよ。
グーって指で押さえつけたりはしますけどね。
しかしまいったなぁ・・・。
あいもかわらず、あちこちで自分の部屋の要らない物を売ったり捨てたりしております。
人が見たら「いや、これはもったいないんじゃない?」ってモノも処分してます。
片づける時に重要なことをこの何か月かのプチ断捨離生活で学びましたね。
危険なワードに気づいた。
「もったいない」
これですね。大変大変重要なワードですね。
これはねぇ・・・我々団塊ジュニアにあたる世代がかけられた呪いだと思いますね。
私ら若い頃は公共広告機構ACがCMをやってましてね。「もったいないオバケが出るぞー」ってヤツ。
食べ物を粗末にするとーみたいな奴でしたが。
あのねぇ・・・戦前戦中戦後のモノのない時代を生きてきた人たちの価値基準は「物があること」なんですよ。
物がなかったから、モノがあると幸せって考えなんですね。
だからモノを捨てにくい人たちなんですね。特に貧乏だった家の人はそうです。うちなんてまさにそう。
(同じ物のない時代を生きた人でも家が裕福で、モノがちゃんとあって、不要なものは捨てていた家に生きていた人は
別。)
彼らは高度経済成長の後にきた大量消費・飽食の時代に危機感を感じたわけです。
こんなものがあふれて、ポイポイとモノを捨てる世界ではいけないと。人間がおかしくなる。みたいな。
そして我々世代にCMやら漫画やらドラマやらで「もったいない」を植え付けたんですよ。
これが間違い。
要らないモノは捨てる。この重要な行為のセンサーをむやみやたらな「もったいない」が狂わせる。
「もったいない」は大体次の言葉とセットです。「せっかくだから」「いつか使うかも」
この言葉とセットになると、ほとんどのモノが捨てられない。
いつ来るかわからない「いつか」のために長い時間大きなスペースを占領させて
なんだかわからん備蓄状態にしちゃうんですよ。「もったいない精神」が。
モノのない時代を生きた世代で片付けがヘタだったうちの両親なんかは、この「もったいない」の
線引きがすごい極端な場所にあって、それを見て育った俺はやはりそれに近い感覚だったんですね。
ある種のモノは「もったいないから取っておく」で正解ってモノがあるんですよ。
それはよく使う物だったり。
年に数回確実に使う物とかなんですが。
5年、10年以内に使う可能性がゼロに近いモノや、もしかしたら生涯出番がないモノも「とりあえず」取っておく。
みたいなスタンスなんですよ。
「いつか使う物」は、その「いつか」が来た時に買うんですよ。それで遅くないんですよ。
「こんな時のためにとっておいたんだ」なんてモノが出てこなかったり、探しだしたら劣化してたなんて方がアウトです。
「もったいない」は日本人の美徳だ。って言われるかもしれんけど
それは必要なトコで発揮するべきものなの。
恵方巻の大量廃棄とか、むしろ大量消費社会の中で「もったいない」ことしてるのは企業や団体であって、個人がまだ使える机捨てたって、それはただ不要なゴミを捨てただけなの。もったいないとかじゃないの。
とにかく「もったいない」に支配されてたらゴミ屋敷まっしぐらな可能性ありますね。
俺の大学時代の部屋とかまさにもったいない精神で構築された暮らしにくいゴミだメみたいでした。
まぁ言ってしまうと最近の俺の部屋もかなりそれに近い状態だったんですよ。
もう・・・・飽きた…。
まっすぐ歩けるスペース欲しい。
窓を開けるのに身をよじらないと届かないとか、モノをどかさないといけないとか、もう嫌だ。
「あれ、あの辺にあったよな」ってモノが、物の多さで見つからず、新しく買ったり(ホッチキス何個もある。)、もう嫌だ。
クモやゴキブリが侵入した時に奴らの隠れ場所だらけでどうにもならないとか。もう嫌だ。
引越しするって時に真っ先に自分の部屋の梱包を想像してうんざりするとか。それはもうわかってるんですよ。自分で。
物が多すぎるって。
とにかくもう嫌だなぁと。
スッキリ暮らしたいんですよ。
「もったいない」「せっかく」「いつか使う」これを全否定して頑張りたいと思いますね。
これは本当に前世代の老人たちの呪われた置き土産の思想なんですよ。