あれから7年とは
2011年04月28日
まぁ今月の26日が長男の誕生日でして。まぁ早いモノで7歳になりましたですよ。
7年前の日記なんぞ見てみるとこんな感じでした。
「4月26日 大変な一夜が終り、大変な朝を迎え…まぁ生きた心地がしませんでしが、とりあえず用事は無事に一段落。朦朧としたまま昼過ぎ布団に潜り込む。布団って本当にいいものですね…。」
これはトガミに名前が変わる前のHPでの日記なので、現在はまぁ見れないかなぁと。
なーんも具体的に書いてないですね。
まぁそれもそのはずで、当時俺に子どもができる…できたのを知っていたのは友人知人でもほんの2,3人だけ。内緒にしておったんです。無論ネットでもナイショですわな。
当時あれですから、漫画仕事なくて、警備員バイトしてた頃ですからねぇ。そんな状態で子ども生まれるわけですから。多分みんなに言われるんだろうなぁと思っていたのが、「どうするの?」って言う言葉です。
漫画どうするの?やめるの?就職するの?どうするの?みたいな…まぁそういうのを聞きたくなかったんですね。
どうするも何も頑張って生きるだけですし。
っつーわけで当時知っていたのはアシスタントさせてもらってた先輩二人とそのご家族等くらい。
他の人には黙っていていただきました。
っつーわけで当時どんなだったかちょっと書きますかね。
当時書きつけたメモからおこします。
嫁さんは三月初旬頃から実家に戻って出産に備えておりました。
わたしゃこちらで警備員バイト行ったり、漫画のアシスタント行ったり…。
(2004年4月23日)
21日22日と連続して警備バイト(夜20時から翌朝8時までの12時間勤務、一晩一万円)。
23日の朝、バイトを終えて帰宅。三時間ほど仮眠をとり先輩のK先生宅へ。夕方五時着。
Tくん ウサちゃん(メイド刑事コミカライズ作者) タっちゃん(P2!作者)の三人とアシ作業。
(4月24日)
アシ2日目。午前10時ごろ就寝。久々に六時間以上寝る。
夕方
高木くん(なまずランプ作者)、ちひろちゃん(ベルベット・キス作者)の2人が合流して人海戦術。
(4月25日)
昼ごろ、仕事終了。一度横浜のアパートに戻り、支度をして静岡西部の病院へ。
途中新幹線車内で義父から「出産まだ」の報告。
夕方18時過ぎ、病院着。
妻は分娩室入口のベッドに。食事には一切手をつけず。顔にはもう限界の兆候。
23日金曜から妻は入院し、陣痛促進剤の投与などなど大変で、食えない、寝れない、頻繁に襲ってくる痛みと2日間戦っておったのだった。
夜は俺がつきそった。
数分置きに嫁を襲う陣痛。そのたびに腰を押す俺(痛みが少し楽になるらしい)
(4月26日)
夜中の0時。助産婦さんが子宮入り口の大きさを確認。4×5センチほど。
夕方より広がっているようだが、陣痛は依然として不規則微弱。
気力、体力ともに消耗した嫁にまた朝から仕切り直しで促進剤を使う事に。
このまま続いたら死んでしまうのではないのか…と思うほど、見た事もない衰弱っぷりに不安を覚えた。
夜2時ごろまではある程度記憶があったが、仕事明けに休まず移動してきた俺の活動限界がきた。
アシ先で起きてから34時間ほどでベッドの端で眠りこけた。
・・・・・・・・・・・・・・
朝の7時半ごろ、周囲がにわかに慌ただしい。
看護婦と嫁に起こされる。
声をかけてもなかなか起きない俺に「しょうがないお父さんねぇ」と看護婦達は苦笑しておったようだ。
ボーっと状況を把握することに努めた。
「緊急帝王切開になります」
何がなんだか最初わからなかった。
寝ぼけた頭に次々嫌な情報が入ってくる。
「先ほどお腹の赤ちゃんの心拍が数分間低下しました。今は回復したので大丈夫と思うが、次に心拍が低下したらまた回復する保証がない」
(後から聞いたが、以前同じような状況で死産になったことがあったらしい。)
寝ぼけたまま医師に説明を受ける俺。
説明を受けて手術同意書にサインをする事に。
「麻酔は腰痛麻酔。二万人に一人の割合で神経を傷つけるなどのリスクがある」
「輸血は命にかかわる状態の場合 使用。万全を期すがウィルス感染の確率は0ではない。」
「妊婦は血が凝固しやすい。術後、同じ姿勢でいることで血栓ができ、それが心臓に行ったら手の施しようはない」
そんな手術に伴うリスクの話を次々され、それらすべて了解したうえで同意書にサインをしろと。
仕事と移動でヘトヘトで眠りこけてた俺がたたき起こされて数分後に、そんな同意書にサインとは。
半分悪夢を見ているのかと言った感じだった。
手術しないと赤子が危険。このままでは死ぬかもしれない。
もしかしたらすでに心拍低下の際に脳に障害などをおってる可能性もある。
本当に本当に最悪の場合は、母子ともに亡くなる可能性まででてきた。
サインをせねば手術は行われない。嫌だったがサインする。しなきゃ仕方ない。
リスクの話聞いたら正直嫌だったが、もう手術拒否なんて選択肢なかった。
最悪の状態を考えながらサインする。
よそから見たら俺はその時どんな目をしていたろうか。
妻が手術室に運ばれるのを見送る。
手を握って励ましたつもりだったが、励ませたかどうか…。妻の顔にも恐怖が浮かんでいた。
見送った後、義父母に手術の旨を連絡。
その後、バイト先に今日の警備は行けない旨を連絡。
院内の食堂で義父母と合流し、結果を待つ。
結果を待ってる数十分間は生涯で最悪の時間だった。
マンガの仕事をしていくにも希望の持てない状況。
家族が増えると言うのに警備バイトでしのぐ日々。
「これで二人に何かあったら…神様、もっと俺たちは不幸にならんといかんですか」と少し思っていたりした。
9時頃、看護士が「8:42 男子誕生」の報を持ってきた。
三十分ほどして縫合の終わった妻が病室に戻ってきた。目はうつろで身体は小刻みに震えていた。
大変かわいそうな様子だったが、最悪の事態が去って正直ホッとしていた。
食堂で再び待つ。赤子の検査が午前いっぱいかかった。
テーブルに突っ伏して軽く寝こけて待っていた。
心拍低下の件もあったし、先に破水していたこともあり感染症のリスクもあるっつーことで色々と検査。
12時20分ごろ小児科医から報告。現在異常なし、しかし抗生物質の投与は継続する。とのこと。
かくして妻が普通に赤子と触れ合えるのは数日後の事になった。
普通に出産した人はすぐに赤子を抱けるし、一緒にいられるが。妻もかわいそうだったが、赤子はもっとかわいそうだった。
義父母と保育ケースに入って抗生剤を投与されてる赤子を見に行く。
身長51センチの赤子は、腕に管をさされ、透明なケースの中でしきりに母親を求めるように泣いていた。数日はこのままなのだと思うと心が痛みましたな。
しかし、不思議なモノで、俺的には「これが俺の子かぁ」となんかいまいち実感がわかなかったりした。
病院にいてももう何もすることないので、義父母と嫁の実家へ。自分の親に生まれた旨電話。
食事後仮眠。
44時間ぶりに布団に足をのばして寝られる喜び。一分もせず寝た。
夕方18時、起きて夕食後再び病院へ妻は先ほどよりは元気そう。切ったお腹は当然痛む様子。
しかし麻酔による障害もない様子で、とりあえずひと安心。
20時過ぎにまた嫁の実家に戻り就寝。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まぁこんなでした。7年前の4月26日。
生きた心地がしなかった1日でしたわ。
「まったく大変でしたよ」とか、知り合いにいっぱい話したかったですけどね、当時。
まぁ赤子のが生まれた旨を友人たちにさらしたのはこれから半年以上経った年末での出来事でありました。
あれから7年。
ケースの中で泣きまくっていた赤子も小学生。
しょーもない慌て者ですが元気ですわ。
慌て者で不器用なのは赤子の時から。
母親のお腹からなかなか出てこない状態で、心拍低下まで起こしたのは
この慌て者が臍の緒を首に1重巻いて、さらにたすき掛けに、二重に身体を巻き付けておったからなんですね。
あれがなければ 普通に生まれてこれたのに…。まぁ今となっては言ってもしょうがない事ですが。
まぁまだまだ親としての戦いは続きますわ。
頑張りますです。
時々、この日の事を思い出して、頑張りますです。
7年前の日記なんぞ見てみるとこんな感じでした。
「4月26日 大変な一夜が終り、大変な朝を迎え…まぁ生きた心地がしませんでしが、とりあえず用事は無事に一段落。朦朧としたまま昼過ぎ布団に潜り込む。布団って本当にいいものですね…。」
これはトガミに名前が変わる前のHPでの日記なので、現在はまぁ見れないかなぁと。
なーんも具体的に書いてないですね。
まぁそれもそのはずで、当時俺に子どもができる…できたのを知っていたのは友人知人でもほんの2,3人だけ。内緒にしておったんです。無論ネットでもナイショですわな。
当時あれですから、漫画仕事なくて、警備員バイトしてた頃ですからねぇ。そんな状態で子ども生まれるわけですから。多分みんなに言われるんだろうなぁと思っていたのが、「どうするの?」って言う言葉です。
漫画どうするの?やめるの?就職するの?どうするの?みたいな…まぁそういうのを聞きたくなかったんですね。
どうするも何も頑張って生きるだけですし。
っつーわけで当時知っていたのはアシスタントさせてもらってた先輩二人とそのご家族等くらい。
他の人には黙っていていただきました。
っつーわけで当時どんなだったかちょっと書きますかね。
当時書きつけたメモからおこします。
嫁さんは三月初旬頃から実家に戻って出産に備えておりました。
わたしゃこちらで警備員バイト行ったり、漫画のアシスタント行ったり…。
(2004年4月23日)
21日22日と連続して警備バイト(夜20時から翌朝8時までの12時間勤務、一晩一万円)。
23日の朝、バイトを終えて帰宅。三時間ほど仮眠をとり先輩のK先生宅へ。夕方五時着。
Tくん ウサちゃん(メイド刑事コミカライズ作者) タっちゃん(P2!作者)の三人とアシ作業。
(4月24日)
アシ2日目。午前10時ごろ就寝。久々に六時間以上寝る。
夕方
高木くん(なまずランプ作者)、ちひろちゃん(ベルベット・キス作者)の2人が合流して人海戦術。
(4月25日)
昼ごろ、仕事終了。一度横浜のアパートに戻り、支度をして静岡西部の病院へ。
途中新幹線車内で義父から「出産まだ」の報告。
夕方18時過ぎ、病院着。
妻は分娩室入口のベッドに。食事には一切手をつけず。顔にはもう限界の兆候。
23日金曜から妻は入院し、陣痛促進剤の投与などなど大変で、食えない、寝れない、頻繁に襲ってくる痛みと2日間戦っておったのだった。
夜は俺がつきそった。
数分置きに嫁を襲う陣痛。そのたびに腰を押す俺(痛みが少し楽になるらしい)
(4月26日)
夜中の0時。助産婦さんが子宮入り口の大きさを確認。4×5センチほど。
夕方より広がっているようだが、陣痛は依然として不規則微弱。
気力、体力ともに消耗した嫁にまた朝から仕切り直しで促進剤を使う事に。
このまま続いたら死んでしまうのではないのか…と思うほど、見た事もない衰弱っぷりに不安を覚えた。
夜2時ごろまではある程度記憶があったが、仕事明けに休まず移動してきた俺の活動限界がきた。
アシ先で起きてから34時間ほどでベッドの端で眠りこけた。
・・・・・・・・・・・・・・
朝の7時半ごろ、周囲がにわかに慌ただしい。
看護婦と嫁に起こされる。
声をかけてもなかなか起きない俺に「しょうがないお父さんねぇ」と看護婦達は苦笑しておったようだ。
ボーっと状況を把握することに努めた。
「緊急帝王切開になります」
何がなんだか最初わからなかった。
寝ぼけた頭に次々嫌な情報が入ってくる。
「先ほどお腹の赤ちゃんの心拍が数分間低下しました。今は回復したので大丈夫と思うが、次に心拍が低下したらまた回復する保証がない」
(後から聞いたが、以前同じような状況で死産になったことがあったらしい。)
寝ぼけたまま医師に説明を受ける俺。
説明を受けて手術同意書にサインをする事に。
「麻酔は腰痛麻酔。二万人に一人の割合で神経を傷つけるなどのリスクがある」
「輸血は命にかかわる状態の場合 使用。万全を期すがウィルス感染の確率は0ではない。」
「妊婦は血が凝固しやすい。術後、同じ姿勢でいることで血栓ができ、それが心臓に行ったら手の施しようはない」
そんな手術に伴うリスクの話を次々され、それらすべて了解したうえで同意書にサインをしろと。
仕事と移動でヘトヘトで眠りこけてた俺がたたき起こされて数分後に、そんな同意書にサインとは。
半分悪夢を見ているのかと言った感じだった。
手術しないと赤子が危険。このままでは死ぬかもしれない。
もしかしたらすでに心拍低下の際に脳に障害などをおってる可能性もある。
本当に本当に最悪の場合は、母子ともに亡くなる可能性まででてきた。
サインをせねば手術は行われない。嫌だったがサインする。しなきゃ仕方ない。
リスクの話聞いたら正直嫌だったが、もう手術拒否なんて選択肢なかった。
最悪の状態を考えながらサインする。
よそから見たら俺はその時どんな目をしていたろうか。
妻が手術室に運ばれるのを見送る。
手を握って励ましたつもりだったが、励ませたかどうか…。妻の顔にも恐怖が浮かんでいた。
見送った後、義父母に手術の旨を連絡。
その後、バイト先に今日の警備は行けない旨を連絡。
院内の食堂で義父母と合流し、結果を待つ。
結果を待ってる数十分間は生涯で最悪の時間だった。
マンガの仕事をしていくにも希望の持てない状況。
家族が増えると言うのに警備バイトでしのぐ日々。
「これで二人に何かあったら…神様、もっと俺たちは不幸にならんといかんですか」と少し思っていたりした。
9時頃、看護士が「8:42 男子誕生」の報を持ってきた。
三十分ほどして縫合の終わった妻が病室に戻ってきた。目はうつろで身体は小刻みに震えていた。
大変かわいそうな様子だったが、最悪の事態が去って正直ホッとしていた。
食堂で再び待つ。赤子の検査が午前いっぱいかかった。
テーブルに突っ伏して軽く寝こけて待っていた。
心拍低下の件もあったし、先に破水していたこともあり感染症のリスクもあるっつーことで色々と検査。
12時20分ごろ小児科医から報告。現在異常なし、しかし抗生物質の投与は継続する。とのこと。
かくして妻が普通に赤子と触れ合えるのは数日後の事になった。
普通に出産した人はすぐに赤子を抱けるし、一緒にいられるが。妻もかわいそうだったが、赤子はもっとかわいそうだった。
義父母と保育ケースに入って抗生剤を投与されてる赤子を見に行く。
身長51センチの赤子は、腕に管をさされ、透明なケースの中でしきりに母親を求めるように泣いていた。数日はこのままなのだと思うと心が痛みましたな。
しかし、不思議なモノで、俺的には「これが俺の子かぁ」となんかいまいち実感がわかなかったりした。
病院にいてももう何もすることないので、義父母と嫁の実家へ。自分の親に生まれた旨電話。
食事後仮眠。
44時間ぶりに布団に足をのばして寝られる喜び。一分もせず寝た。
夕方18時、起きて夕食後再び病院へ妻は先ほどよりは元気そう。切ったお腹は当然痛む様子。
しかし麻酔による障害もない様子で、とりあえずひと安心。
20時過ぎにまた嫁の実家に戻り就寝。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まぁこんなでした。7年前の4月26日。
生きた心地がしなかった1日でしたわ。
「まったく大変でしたよ」とか、知り合いにいっぱい話したかったですけどね、当時。
まぁ赤子のが生まれた旨を友人たちにさらしたのはこれから半年以上経った年末での出来事でありました。
あれから7年。
ケースの中で泣きまくっていた赤子も小学生。
しょーもない慌て者ですが元気ですわ。
慌て者で不器用なのは赤子の時から。
母親のお腹からなかなか出てこない状態で、心拍低下まで起こしたのは
この慌て者が臍の緒を首に1重巻いて、さらにたすき掛けに、二重に身体を巻き付けておったからなんですね。
あれがなければ 普通に生まれてこれたのに…。まぁ今となっては言ってもしょうがない事ですが。
まぁまだまだ親としての戦いは続きますわ。
頑張りますです。
時々、この日の事を思い出して、頑張りますです。
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